11月9日は【ベルリンの壁崩壊の日】です!
同じ街の中で自由に行き来できなかった時代を、壁の歩みからたどってみませんか?
なぜ11月9日が【ベルリンの壁崩壊の日】といわれるのかという由来・理由や、「ベルリンの壁」に関するプチ雑学をまとめました。
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ベルリンの壁崩壊の日の由来・理由
1989年11月9日、ドイツ・ベルリンの国境検問所が開かれ、東西の市民が行き来できるようになったことから、11月9日は「ベルリンの壁崩壊の日」と呼ばれています。
東西の対立を象徴した壁が役割を失った、歴史の大きな節目です。
東西ドイツの再統一は、その翌年の1990年10月3日に実現しました。
ベルリンの壁に関するプチ雑学・トリビア
ベルリンの壁は、東ドイツの中にあった西ベルリンを囲み、人の移動を制限した国境の施設です。
市内の道路や暮らしのつながりも、壁によって分断されました。
いつもの道の先に突然通れない場所ができたら、と考えると、当時の暮らしが気になりますよね。
ここからは、「ベルリンの壁崩壊の日」にぴったりなベルリンの壁の雑学をいくつかご紹介します。
壁はドイツを横断せず、西ベルリンをぐるりと囲んでいた
「東西ドイツを分けた壁」と聞くと、国の真ん中を長く横切る壁を想像しませんか?
実際のベルリンの壁は、東ドイツの中に位置する西ベルリンを取り囲む形で築かれました。
ベルリンというひとつの街が東西に分かれ、その西側部分を囲う国境の長さは約155km。
街の中心を通る区間だけでなく、西ベルリンの周囲にも境界が続いていたんです!
1961年8月13日、東ドイツ側は境界を封鎖し、壁の建設を始めました。
背景にあったのは、東ドイツから西側へ人々が移るのを止めようとする政府の方針で、壁はその後28年間にわたり人の移動を隔てました。
「直ちに」という記者会見の発表が、歴史を動かした
1989年11月9日の夜、大きな転機となったのは、東ドイツ政府側の記者会見。
会見を担当した政治局員ギュンター・シャボウスキーが、「出入国の自由化は直ちに実施される」と伝えました。
この発表を受け、東ドイツの市民が国境検問所へ集まります。
やがて検問所が開かれ、人々が東西を行き来する光景へとつながっていきました。
それ以前から、東ドイツでは市民の抗議活動などが広がっていました。
長く積み重なった変化が、会見の言葉をきっかけに一気に動いた夜だったんですね。
壁が開いた日から、再統一までは約11か月
ベルリンの壁が開かれたのは1989年11月9日で、ドイツの再統一は1990年10月3日です。
二つの出来事の間には、およそ11か月の時間がありました。
その間には東ドイツでの自由選挙や、東西の通貨をそろえる通貨同盟、統一条約の調印などが行われています。
国境を越えられるようになったあとも、一つの国になるための準備が続いたんです!
ニュース映像では、壁の上で喜び合う姿が印象に残りますよね。
その象徴的な場面の先に、人々の暮らしや制度をつなぎ直す道のりがあったと分かると、歴史の見え方も変わってきます。
今も残る壁の一部は、約1.3kmの屋外ギャラリーに
壁の一部は、今もベルリンに残っています。
シュプレー川沿いにある「イーストサイドギャラリー」は、残された壁に絵画を描いた、長さ約1.3kmの屋外ギャラリーです。
1990年9月28日に公開され、世界各地の芸術家が平和や自由への思いなどを作品に込めました。
分断のための壁が、思いを伝えるキャンバスへと姿を変えたんです!
壁の歴史を保存するベルリンの壁財団が、この場所を管理しています。
作品を眺めるときに、その下に残る壁の役割も思い浮かべると、単なる壁画とは違う重みを感じられそうです。
まとめ
11月9日の【ベルリンの壁崩壊の日】。
1989年11月9日、ドイツ・ベルリンの国境検問所が開かれ、東西の市民が行き来できるようになった歴史の節目にちなんだ記念日でした。
街の風景に残る壁は、人々の暮らしと自由について考える手掛かりです。
写真の向こう側にどんな日常があったのかと思うと、遠い国の歴史も少し身近になりますね。
この機会に当時の街の地図や写真を見比べて、ベルリンの歩みをたどってみるのもおすすめです◎
